奨学生の声 2020年度

「10年後の私」

東京大学大学院 新領域創成科学研究科
匿名

 2020年、世界は大きく変化した。

 新型コロナウィルスの世界的な流行により、多くの人々が感染し、身体的にも精神的にも影響を受けた。それを取り巻く社会にも、大規模な変革が問われ、その変化に対応できる者とそうでない者との格差が広がっている。一刻も早く、この感染症の流行が収まり、世界中に安寧の時が訪れることを祈っている。

 私自身、いわゆるコロナ渦の影響を受け、修士論文のために計画していたフィールドワークを中止せざるを得なくなり、論文構成の大幅な変更を強いられた。卒業までの指導教員とのやりとり、研究発表も全てオンラインで行うこととなり、変化に対応することに苦労した。しかし、この激動の1年間をアカデミアという社会から一歩距離をとった場所で観察することを許されたのは、特権を与えられたとでも言うべきだろう。

 大学院では、サスティナビリティ学という学際的学問を専攻し、人新世(Anthropocene)における、環境、社会、経済のあり方を、多様な専門性を持つ、世界各国から集まった学生たちとともに学んできた。ゼミや授業の中で、教員と学生が一緒になり、このコロナ渦から何を読み解くかについて自分たちの専門知識と紐付けながら議論を進めてきた。継続的な経済成長を前提に考えられてきた理論を疑い、社会のあり方について問い直すこのプロセスを通じ、私がこれから生き抜いて行かなければならない、いわゆる“ウィズコロナ”の時代が、どうなっていくかを占い、また、どうあるべきかを考える機会を得られたことは、非常に貴重な時間だったと振り返る。

 現在私は、大学院で身につけた専門性を活かし、サステナビリティコンサルタントとして、民間企業で勤務している。日本でも国連のSDGsが謳われるようになって久しいが、欧米を中心とした世界各国では、より早いスピードで持続可能な社会の実現に向けた動きが進んでいる。経済活動に起因した温室効果ガスの排出削減、また、サプライチェーン上の生物多様性、人権の保護など、多岐にわたる分野において、規制や国際ルールへの遵守が各国企業に求められており、企業が持続可能な社会の一員として正しい選択ができるよう、コンサルタントとして支援する仕事に日々やりがいを感じている。

 コロナ渦を経験する前と後では、10年の捉え方が全く違うように感じている。これから10年後、何が起こるのか、どんな社会になっているか、このコロナ渦を経験した後では、全く想像がつかない人の方が大半ではないだろうか。ただひとつ言えることは、今後10年~30年で、社会環境がこれまでの比にならないほど、大きく変化し、不確実性がさがコロナ渦の比にならないほど増すだろうということである。気候変動の影響は激甚化し、人類が直面したことのない課題が次々と現れるだろうと言われている。その時に、私はどんな存在でありたいか。

 私は、10年後も何らかの形で持続可能な社会づくりに貢献できる人間でありたいうと願っている。キャリアに限らず、日々の衣食住にかかる選択においても、次の世代に、少しでも安全で、美しい地球を残せるよう、自分の人生を通じて貢献したい。このコロナ渦を経験した人間だからこそ、気づいたこと、できる選択があるはずである。

 末筆にはなるが、新型コロナウィルスの影響を受け、経済的にも打撃を受ける中、東ソー奨学会様にご支援いただいたことで安心して修士論文を執筆することができた。心より感謝申し上げる。

「記憶に残った旅ーインド」

京都大学 理学部
妹尾歩

 大学一回生が終わった春。一ヶ月間インドを旅することに決めた。

 大学生になり、勉強したかった科学が思いっきり勉強できる環境に満足していた。朝から授業を受けて夜まで図書館にいるという単調な生活は、好奇心という欲求を根本から満たしてくれるものだった。その一方で、好奇心だけが一生を科学に捧げる理由になり得るのだろうか、という迷いが心の隅に頭をもたげはじめていたのもその頃だった。科学を楽しめば楽しむほど、一生を科学に捧げることの正しさのようなものがわからなくなる自分がいた。今の自分の全てを忘れて、未知の世界で生きてみたいという思いが募り、航空券販売サイトにクレジットカードの番号を打ち込んでいた。一ヶ月という期間以外になんの計画もなかった。

 関西空港に向かう南海電鉄の窓から、朝日が少しづつ見え始めていた。天頂の三日月は、太陽に押されるようにして西に向かう。私もその月を追いかけるようにしてインドに向かう飛行機に乗った。格安航空の狭い座席に身を押し込み、窓の下に広がる世界を眺める。時々、風に揺れる飛行機の翼の振動が座席を通じて伝わってきた。出国数日前に短く刈り込んだ髪の毛を撫でながら、夜の空気をおび始めたデリーの街並みを眼下にみとめた時、飛行機は徐々に着陸の体制を整えていった。

 デリーに着くとまずその日泊まる宿を目指す。空港からひと気のない地下鉄に乗り、バハールガンジと呼ばれる宿屋の集まる地区へと向かう。地下鉄からバハールガンジまではリキシャと呼ばれる個人タクシーに乗ることにした。駅の前のリキシャは旅行者狙いで危ないとは知りながら、それまでの行程が思いのほか順調だったので、深く考えもせず乗り込んだ。リキシャは中心地から離れ、暗闇の中へと沈んでいった。連れて行かれたのは高速道路の料金所のような場所で、窓口のおじさんが「political problem」でバハールガンジにはいけないという。そして、パスポートを要求される。騙された。私はその場から走り出し、大通りの方へと向かった。そこでなんとか他のリキシャを捕まえ、声をあらげながら必死に目的地に行くようにうながした。バーハールガンジの中でもなかなか宿の場所が見つからず体は疲弊していた。一刻でも気を抜いてはいけなかったのだ。やっとたどり着いたベットに体を横たえながら長い1日が終わっていった。

 私はなるべく安宿に泊まって、安い屋台のものを食べて暮らしていこうと決めていた。そうしなければ、なんのために日本を抜け出してきたのかがわからなくなる。意外なことに、アルコール消毒を心掛けていたおかげか、それほどひどくお腹を壊すことはなかった。ドミトリーの隣に寝ている禿頭のおじさんも盗みなどをする人ではなかった。毎日、適当に目標地点を定めて街を歩き回った。

 テジャスとソニアに出会ったのも、歩き疲れて立ち止まった屋台でドーサを食べていた時だった。ドーサというのはカレー味の具の詰まったクレープのような料理だ。中の具をこぼれないように食べていると、自然に近くの二人づれの男たちと会話が始まった。なんでも、田舎の方からプラスチック加工用のヒーターの商談に来ているらしい。年もそれほど違わないこの二人は直感的に騙しなどではないとわかった。奢ってもらったチャイを飲みながら、工学部出身の彼らと自然に科学の話に花が咲く。

 次の日も彼らとご飯に行った。若くしてヒーターの会社を立ち上げたテジャスと、その幼馴染で工業大学に行っているソニア。ビジネス旅行を幼馴染と行くというのもなんだか面白いと思いながら、タンドリーチキンを頬張った。

 彼らがデリーを立つ日、テジャスがいきなり飛び上がって歩道の上に飛び出た木の葉っぱを一枚引きちぎり、私に手渡した。何かの冗談かなと思っている私にソニアが、菩提樹だよと教えてくれる。ここでは普通に生えている木なんだと少し納得しながら、お釈迦様の一部を受け取ったかのような気持ちがしてきた。今でもノートに挟まったその葉っぱが私をインドに引き戻す。

 デリーを後にして、寝台列車に乗ってアグラに向かった。タージマハルで有名なこの街は、観光客にとってはタージマハルしか有名ではない土地だ。しかし、タージの周りに広がる、観光客のほとんどいない街の雰囲気に惹かれた私は、ここに数日滞在することに決めた。タージの横の寺院に行けば、入場料を払わずにタージを何時間でも眺めていられることを発見したのも、長めに滞在しようと思った理由の一つである。寺院の古びたスピーカーからはシバ神を崇める歌が延々と流れ続け、その音楽が目の前を流れる大きな川と溶け合っていく。タージマハルはその寺院の左手にあり、ちょうど斜め下から見上げるような形だった。白く滑らかな玉ねぎ型の建物は太陽の光の色に合わせて刻々とその趣を変えていた。「オー、ナマッシバ、オー、ナマッシバ」シバに向かってスピーカは鳴り続ける。タージの後ろに傾いていく太陽の光を川だけがやけに明るく反射している。川岸に牛がいて、猿がいて、私と同じ時間を共有していた。

 「Hello」と同年代の少年3人が話しかけてきた。客引きなどが来そうな場所ではないので、私も「Hello」と返す。ポールとその仲間たちは近くの学校に通う高校生だった。その中の一人が誰かへのラブレターの最後に日本語で「愛している」と加えて欲しいというので、生来汚い筆跡を隠すようにできるだけ丁寧に、「愛しているよ」とかいた。夕日に照らされた川は、最大限赤く燃えたのち徐々に燻っていた。3人に晩御飯を食べるのにいい場所はないかと聞くと、美味しい麺屋があるらしい。彼らが乗ってきた2つの自転車にそれぞれ二人乗りをして、その店に向かって競争する。アグラは暖かな闇に包まれ始めていた。

 ご飯を食べながら、将来の話になると、ポールはインド工科大学に行って物理学者になりたいという夢を語った。私と同じじゃないかと思い強烈に親近感が湧く。そして、大学で思いっきり物理を勉強できる自分の今の環境をとても恵まれていると感じた。

 次の日、朝学校に行く前の彼らとたまたま商店街で出会った。前日に撮るのを忘れていた写真をとることができてよかった。カメラに向かって立てた私たちの親指がアグラの街を包む青空へと向かっていた。

 私はこの後さらに電車に乗って、ガンジス川で有名なヴァラナシに行き、そこからバスでネパールに入り、ヒマラヤを仰ぎ見ながらポカラとカトマンズを訪れた。そしてさらにバスに乗って、行きとは違う国境から再度インドに入国し、ダージリンを経てコルカタへと旅を続けた。一ヶ月はとても長く、とても短かった。帰国後、家へと向かう特急はるかの中でノートを広げる。

ーーーー帰国後書いたノートより。ーーーー

 実のところこの一ヶ月を経て自分が180°変わったとかそういう大きな変化があったようには思えないのです。むしろ今まで科学を勉強してきたなら、続けるかどうかは突き詰めてから考えればいいという考え方が自分の中に生まれており、これまでの自分をより強く引き継ぐ、そんな方向にいったような気がします。気がしますというのは、実際に日々の生活を送らなければ何も本当のことはわからないからです。

 この一ヶ月さまざまな人々を見ました。チャイ屋はチャイ屋を肉屋は肉屋を朝から晩までやっていました。当たり前のことですが当たり前すぎて日本では感じることができていなかったのでしょう。ヴァラナシや、カトマンズでは遺体の焼かれるのを何度も見ました。コルカタのカーリー寺院ではメーメー泣いてこちらを向くヤギの首がとび、そして数分後には肉と内臓と皮と頭に分けられる一部始終を見ました。人はすぐにも死ぬのです。死んだら僕の記憶や経験は消えてしまうのです。そんな中で、人々は自分の仕事をただひたすら行なっていました。僕の科学に対する悩みはとてつもなく贅沢なものだと思いました。そして、もっと「仕事」と割り切る部分があってもいいのではないかと思ったのです。大学に入り自由になった僕は何もかもに手を出しそれぞれに楽しみを見出しました。事実、何事も楽しいです。しかし、一つを選んで突き詰めるということはさらに楽しいことである(かも)しれないのです。そして、一つを突き詰めない限り見えてこないものがあるのだと思うのです。

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私は、この後さらに本腰を入れて物理を勉強し、今年2021年からはアメリカのコロラド大学で博士課程を送ることになった。この旅の意味をまだ自分でも理解してはいないが、インドが一つの転換点になったことは確かである。

「将来の夢」

北海道大学 工学部
匿名

 私の夢は今までの人生の中で幾度となく変わってきました。小さいころの夢は、両親の仕事が教師だったこともあり教師でした。しかしテレビをよく見る私にはテレビに映る漁師飯にあこがれ、漁師になると言っている時もありました。漫才をしないでバラエティー番組に映るタレントを見て、漫才をしないで話しているだけでよくて、食レポでおいしいご飯を食べれるなんて最高ではないかと憧れ、どうにかして漫才をしないでタレントになれないものかと考えたこともありました。もちろんすべて小さい頃です。こうして私はいろいろな職業に目移りし続けた結果、一度考えることをやめました。決められませんでした。とりあえず勉強していれば職業選択の幅は広がるだろう、と中学生時代は勉強を頑張っていました。

 そんな中、実家のリフォームが行われました。私の親は地元で根強い人気のある個人経営のリフォーム屋さんにリフォームのお願いをしました。そのリフォーム屋さんは、社長もその息子さんもそこで働いていて、会社内で非常に仲がよさそうで、私にもよく話しかけてくれて非常に仲良くさせてもらいました。地元のリフォーム屋さんだけあって対応もフレキシブルで、大工仕事を興味津々に眺めていた私にくぎ打ちもさせてくれました。今でも実家のどこかには私の打った釘が眠つています。そう考えるととても感慨深いです。ここまでくればわかる通り、いつしか私はその大工さんたちにあこがれていました。ただ家を造るだけでなく、良いコミュニケーションをとることでより良い家が出来上がっていく。実際、リフォーム中に何点か追加で注文するのもためらうことなく言える環境ができていて、大工さんたちも快く受け入れてくれました。結局、次にリフォームを行う時もその大工さんたちに頼みました。会社の利益のために仲良くしてくれているわけではもちろんなく、そうした環境にすることで自然と会社の利益につながっているように感じられました。私の夢というより目標はこのような大工さんになることです。もちろん、大型建造物を建設し、多大なる人たちに感謝される建築の仕事も偉大ですが、地域に根付き、感謝されていることを肌で感じやすい距離感でお客さんと仕事がしたいと思っています。大工さんにあこがれてから建築学科を目指し勉強を重ね、今は大学の建築学科に所属しています。そして、昔の目標通り、お客さんとの距離が近いハウスメーカーになることを目指しています。大工さんのように実際に私が作業して建てるわけではありませんが、お客さんと大工さんを私がつなぎ、双方と良いコミュニケーシヨンをとってより良い家が造られるとよいと思っています。

 さらに私にはハウスメーカーで働いたのちに叶えたい夢があります。それは、食事を提供する店を開くことです。あわよくば利益を気にせず色々な人にたくさんのご飯を食べてもらいたいです。私の母親は家庭科の教員で、料理が上手で、今までたくさんのおいしいご飯を作ってきてくれました。さらに、今一人暮らしをしているアパートのすぐ近くには安い値段でたくさん食べさせてくれる実家のような食堂があり、大変お世話になっています。このような経験からいつしかいろいろな人にご飯を食べてほしいという夢ができたのだと思います。私はそのほかにも身近な距離で人に感謝されるようなことをたくさんやっていきたいです。