奨学生の声 2014年度

「将来の夢」

九州大学大学院 工学府
匿名

私の将来の夢は優れた技術者になり、日本の技術が他の国に負けないようにリードしていくことです。私は幼い頃から、ものづくりに興味を持っており、科学技術の進歩に非常に関心を持っていました。そのせいか、学校の勉強に関しても興味のある数学や理科はいい成績が取れていましたが、国語や社会は全く興味がわかず、頭にも入らず、あまり良い成績をとった覚えがありません。

中学の時に、私は将来技術者になりたいと思い、理系の道を選び、高専に進学しました。高専時代は学業に集中し、材料系の学問を専門的に学びました。高専4年生までは専門科目や専門の実験によって力をつけていくのですが、高専5年時には研究室に配属され、卒業研究に取り組みます。高専5年時の卒業研究では材料系ではなく、化学系の研究室に配属され、化学の研究を1年間続けることになりました。その中で、私は化学の面白さや研究の楽しさを感じ、さらに学びたいと思い、九州大学への編入学を決意しました。大学への進学は材料系の学科ではなく、ほとんど学んだことのない化学の世界を学びたいと思い、化学系の学科を選びました。大学に編入後は誰よりも勉強に打ち込みました。しかし、高専時代に座学で学んだ材料系の学問とは全く違う化学の勉強を大学3年時から学んだため、ほとんどついていけない状態でした。周りの人たちはとても優秀で、自分が必死に勉強しても卒業すらできるか不安な日が続きました。時には自分は学校を辞めたほうがよいのではと考えてしまう時期も度々あり、私の人生の中でとても大変な時期であったと思います。そういう状況の中でも私は諦めず、学業に打ちこみました。勉強にひたすら打ちこんでいると段々、難しかった専門の化学の勉強がわかるようになり、あげくの果てには私が周りに勉強を教えることができる状況まで力がつきました。この時、私はこれだけ化学の勉強に打ちこむことができたのだから、将来は化学に関係する職業に、ぜひ就きたいと改めて感じました。この経験から、例え困難な状況でも我武者羅にもがき、途中でやめず続けることができれば、必ず道は開けてくるということを学び、今振り返りあの頃を思い出すと、とてもいい経験になったと思っています。この経験を大事にして、今後、もし壁にぶつかることがあっても乗り越えていくつもりです。

大学3年の座学を乗り越え、大学4年生からは卒業研究が始まりました。この時、最初に始めた研究は、光触媒材料に関する研究でその研究が現在の大学院生活でも続いており、3年目になります。大学4年時の卒業研究は、最初の半年間は全くと言っていいほどに、いいデータが出ませんでした。私は卒論がうまくまとまらないかもしれないと思っていましたが、大学3年の時の経験に比べるとたいしたことはないと思い、諦めずに無心に研究に取り組みました。卒業研究が始まって6ヶ月くらいは、ほとんどいいデータがゼロの状態だったのですが、卒業前の4ヶ月くらいからいいデータが出るようになってきました。段々、いいデータが出るようになると研究が面白くなり、大学を卒業した後はさらに研究を続けたいと思い、現在は大学院生として日々、研究に励んでいます。私の強みは仕事の早さと諦めないで続ける姿勢だと思っています。私は仕事のスピードと諦めない姿勢では誰にも負けない自身がありますし、これを武器に大学、大学時代は戦ってきました。しかし、私は独創的なアイディアを出す部分はまだまだ未熟だと日々感じております。大学院時代を通じて、常に研究についてなぜ?なぜ?としっかり掘り下げて考えてきたつもりではありますが、私の中では独創性にはまだ力不足な部分があると思います。それでも、私の強みである諦めないで続ける姿勢を大事にして、今後も誰にも負けないくらい努力を行い、常に考える姿勢も続けていきたいと思います。

私は大学、大学院時代では無機化学を専門的に追求してきましたが、来年度からは全く別分野の高分子材料の会社で、高分子を加工する部品メーカーで働きます。私が将来、携わりたいと思っていた化学関係の仕事の就くのですが、今まで学んだ材料系の学問や化学の知識をベースとして、今までにないような物性を持つ高分子材料を創作していきたいと思っています。高分子材料は、近年需要が伸びてきている材料であり、まだまだ無限の可能性を秘めていると私は思っています。その新しい高分子材料の分野に触れることができることが、私にとって幸せだと感じています。自分のやりたい仕事ができるのは、自分の力ではなく支えてくれた周りの人々や両親のおかげでもあると思います。周りの人々への感謝の気持ちを忘れずに、高分子材料を楽しむとともに優れた独創的なアイディアで研究・開発に取り組み、私の強みである諦めず続ける姿勢を大事にして日本の技術をリードしていくような技術者になれるように努めたいと思います。

「私が学生時代に打ちこんだこと」

名古屋大学大学院 工学研究科
日笠山綾乃

 私は、名古屋大学工学部化学生物工学科に入学し、学部課程を卒業したのち、名古屋大学大学院工学研究科に進学し、修士課程を修了しました。6年間の学生時代に打ち込んだことは、学部生の時は勉強、部活動、修士課程の時は、九州大学での1年間の研究です。

 大学の勉強は、まず講義室の場所を覚えることから始まりました。広いキャンパスの中で、講義室の場所がわからず友達に聞き、一緒に右往左往して迷ったことも、今となってはいい思い出です。学習内容は、とても専門的で驚きました。先生が丁寧に教えてくださったことを、友達と復習し、テスト前には一緒に勉強し、講義の内容を理解していきました。特に印象に残っていることは、化学実験です。化学実験では、実験の目的、事件条件の検討、結果の予測、実験、得られた実験結果の解析、考察という一連の流れを行い、レポートにまとめました。これまで、ただ言われたことをやっていたのに対し、初めて自分で考えて実験を行い、まとめることはとても難しく、夜遅くまでレポートに追われていました。終わった時には達成感がありましたが、論理的に考えることの難しさを感じました。

 小学校から高校まで続けてきたバスケットボールを続けたいと思い、入学してすぐに名古屋大学女子バスケットボール部に入部しました。部員が少なく人数が足りず、実戦練習ができないこともありました。その時は、基礎練習とシュートの練習を重点的に行っていきました。これにより、体力や筋力、さらにはシュートの確率も向上し、辛い練習にも耐えることができる精神力を身につけることができました。チームをまとめる最高学年になった時には、人数が少ない分、各部員の得意なプレーを生かした練習メニューを作成しました。繰り返し練習をすることによって、阿吽の呼吸のプレーもできるようになりました。これを武器に最後の試合に臨みましたが、残念ながら勝つことはできませんでした。しかし、練習してきたプレーが成功し得点につながった時には、チームみんなで喜びを分かち合いました。苦楽を共にしてきた仲間との絆は、ここでしか得られないものだと思います。部活動のメンバーは、それぞれ就職や進学によって離れ離れになってしまいましたが、引退したあとでも、屋久島へ旅行に行ったり、一緒にバスケットボールをしたりするほど仲が良く、これからも大切にしたい仲間です。

 修士課程に入学する直前に、指導教官先生が、九州大学に異動することになりました。私は、そのとき2つの選択を迫られました。一つは、指導教官の先生は変わってしまうけれども、名古屋大学の松下研究室で2年間研究を行うこと、もう一つは、指導教官の先生は変わらず、修士課程の2年間のうち、1年を九州大学で研究を行うことです。2つの選択肢があり、とても迷いましたが、私は慣れ親しんだ愛知県を離れ九州に旅立つことを決めました。理由は、指導教官の先生にまだまだ教えていただきたかったから、そして、新しいことにチャレンジしてみたかったからです。これまで、ずっと実家から大学に通っていましたが、一人暮らしをして成長できると考えました。また、九州大学ではこれまでの研究内容とはまったく別の、新しい研究を行うため、幅広い知見が得られるうえ、新しい環境にも柔軟に対応できるようになる、と考えました。

 いざ、九州に行くことが決まった時、一番困ったことはお金です。一人暮らしの敷金、家賃、電気代、水道代、引越代など、急にまとまったお金が必要になりました。その時、貴奨学会の奨学金のおかげで、無事、一年間九州大学で研究を行うことができました。これまで一人暮らしをしたことがなかったため、食費や光熱費、日用品にとても費用がかかることを実感し、金銭感覚が身につきました。また研究では、お金のことを心配することなく、バイトを行わず、研究に打ちこめたおかげで、学会で英語の口頭発表を行うことができました。最後の修士論文発表会では、これまでの研究内容を発表し、異なる研究室の教授から、「面白い研究だね」というお褒めの言葉をいただきました。

 このように、私が学生生活で様々なことに討ちこめたのも、両親をはじめ、先生方、友達、そして貴奨学会の支えがあったからだと思います。本当にありがとうございます。これから、社会貢献によって恩返ししていきたいと思います。

「私が学生時代に打ちこんだこと」

慶応義塾大学 理工学部
匿名

 ピッチの外でウォーミングアップをしながら、ピッチの中で必死にボールを追う仲間をただ応援し続けた高校の引退試合。私は高校3年間サッカー部で活動してきたが、怪我をすることが多くほとんど試合に出してもらえなかった。そして、引退試合は1秒も試合に出してもらうことができず、チームは敗北して3年間の部活が終わった。

 そんなレギュラーになれなかった悔しい思いが忘れきれず、大学1年生の終わりに、私は理工学部体育会のテニス部に入部した。理工学部用の体育会であるため勉強を優先でき、またテニスは小学生の頃に習っていたため、すぐに感覚が掴めると確信していたため入部を決意した。「今度こそは試合に出て、勝ちたい。」とひっそり心に思いながら、授業の合間や早朝・放課後を活用してテニスの練習に励んだ。テニスの技術は先輩や同期から教わり、素振りや球出し練習を行い身につけた。また、試合をする為の持久力やいい球を打つための体力をつけるため、テニスの仲間とともに傾斜の大きい坂を駆け上がったり、腹筋や腕立てなどの筋力トレーニングをしたりした。努力した甲斐がありテニスの技術は少しずつ上達していったが、試合ではなかなか勝つことができなかった。試合に勝てない一番の要因は、体力と集中力の不足であった。私はもともと体力が少ないにもかかわらず、フォア(利き手側で打つこと)を片手で打つことが苦手であり、両手で打っていたため、片手で打つ人よりも腕を伸ばして届く範囲が狭く、1、2歩多く走る必要があった。そのため体力の限界を迎えるのが早く、試合をなるべく早く終わらせることが勝利につながると思い、相手が取れないような速度が速く、コートの端ギリギリの場所に落ちる球を打つことで得点を稼いでいた。しかし、それは集中力を要する戦略法であり、試合の最後まで集中力を維持できないことが多かった。

 「上手くなったね。」や「集中できないならコートに立つな。」など先輩や同期から様々なことを言われながら練習し続けて迎えた、3年秋の引退試合。タブルス2試合、シングルス3試合の合計5試合で勝利した試合数で決まる団体戦だった。今度は外でただ応援する立場ではなく、シングルスプレーヤーとしてコートの中で試合に挑んだ。ダブルス1対1、シングルス1対1で回ってきたチームの勝敗を決定づける最後が私の試合だった。そのとき、私は試合の数日前から不調になり、コート内に球が入らなくなってしまっていた。しかしたとえ不調でも何とかして勝たなければならなかったため、軌道が高く安定してコート内に入る球を打ち続け、相手がミスするのを待つ、普段なら選ばない戦法を選択した。相手は致命的な攻撃力の強いショットは持たないものの、ミスの少ない選手だったので、試合は4時間にも及んだ。これほど長期の試合はこの時が初めてであり、仲間に応援されながら無心で相手の球を打ちかえす4時間は、まるで夢の中にいるような感覚だった。試合は相手の体力がつきて足を痙攣しミスが増えたことで、勝利に終わった。約4年間の願いが叶い、苦労が報われた気がした。

 部活を引退すると、今度は研究に打ちこんだ。電子回路やセンサを専門とする研究室に配属が決まり、においセンサを研究することになった。実はにおいセンサはあまり興味がなかったが、中途半端に研究すると能力が何も身につかず面白くないと考えて、研究に打ち込むことにした。においセンサは回路とマイコンを組み合わせ、コンピュータで制御する構成にした。コンピュータで制御するためのソフトウェアを作る際、大変苦労した。私はもともとコンピュータの扱いが得意ではなく、プログラミングの授業は避けてきたため、プログラミングにあまり触れたことがなかった。好まないことをするのは苦痛であったが、「ソフトウェアが完成しないとにおいセンサが完成しないまま卒業論文を書かなければならなくなる」という恐怖心が自分を突き動かし、プログラミングを勉強し始めてから約2ヶ月でにおいセンサのソフトウェア部分を完成させることができた。しかし、本当に大変なのはにおいセンサを作製したあとであった。試作したにおいセンサを評価するために対象のにおい気体を用いて測定した。毎回異なる結果になってしまったが、その大きな要因はにおいセンサではなく実験系にあった。ガス実験は、本来一定の温湿度を保った状態で対象ガスを一定量流し続ける系で行うべきである。しかし、その理想の系を実現するには一部屋くらいの場所が必要となるため、所有するのは難しく手に入れることはできなかった。そのため、9Lのアクリル製ボックスににおいセンサと対象ガスを入れて、ファンでボックス内の空気を循環させることで、においセンサの周りに均一濃度の対象ガスが漂っているとみなして測定した。また、対象ガスも市販のガスの場合はガスボンベを置くための場所が必要になるため、研究室に置くことができないので、毎回、対象ガスと窒素を調合して作製した。以上のように実験系がほとんど手作りであったため、自分のちょっとした手加減の差で測定条件が変わってしまい、なかなか理論と一致するようなデータが得られなかった。しかし、100回くらい測定した時から毎回のタイミングや力加減をおおよそ一定にして測定できるようになり、測定条件がそろい理論と一致するようなデータが得られるようになった。また、実験ノートに測定時の些細なことでも気がついたことや周りの様子を記録しておいたことで、それを元に測定失敗時と成功時の違いに気がつき、さらに調べることで測定失敗の要因を突き止められ実験系の改善につながった。学会のポスター発表で外部の人に自分の研究を紹介した時や、卒業論文で自分のデータを見返したとき、もちろん至らない点は片手では足りないほどあったが、ただ現在の状況に対して最善を尽くせたと思い、自分の中で納得のいく一年を過ごせたと満足した。

 今後も、自分の希望しない仕事や研究をするときが訪れるかもしれないが、努力すれば何か身につくと信じて何事にも全力を尽くす自分のスタイルを貫きたい。

「私が学生時代に打ちこんだこと」

京都大学大学院 薬学研究科
匿名

 私は、学部4年間と大学院2年間の計6年間大学に在籍しましたが、今でも大きな思い出として残っているのが部活動に過ごした3年間です。私は大学1回生から引退する4回生の夏まで、準硬式野球部でマネージャーをしていました。大学入学時に「何か打ち込めるものを見つけたい」と思い興味を持ちましたが、それまで運動部の経験はないうえ、「薬学部は忙しいのに体育会の部活でやっていけるのか」「人の世話をするなんて私にできるのか」「運動する人の気持ちを汲み取れるのか」など不安な点がいくつもありました。ただ、せっかくのチャンスに始める前から怖気づいてしまうのはもったいないと思い、思い切って入部しました。入部当初は「学部以外の友人を作りたい」「マネージャーという仕事を通じて楽しい大学生活を送りたい」と考えていましたが、部で時間を過ごす中で「上を目指す部員を支え、引っ張っていけるマネージャーになりたい」と考えるようになり、「リーグ上位、全国大会出場」という部の目標が、私の目標にもなりました。

 私の学年にはマネージャーが4人おり、先輩達が1学年1人や2人であるのと比べて人数の面では恵まれていました。マネージャーは少ないと練習や試合の最低限の補助で手一杯なのですが、私達は人数の多さから初めはやることがわからず戸惑いました。しかし、これまで手が回っていなかっただけで、練習や試合をよりスムーズに運ぶための仕事は、探せばいくらでもありました。そこで、他のマネージャーと共にそれまでやっていなかった仕事を見つけ、どんどん動くことにしました。それは選手の個人成績の詳しい集計やストレッチの補助など当たり前のことでしたが、次にチームや選手個人が何をしようとし何を求めるかを常に考え、また後輩にもそれを教えました。そうする中で、自分だけが「こうしないと、ああしないと」と焦るのではなく、同じ目的を持つマネージャーとお互いの時間や仕事を補いながら動くと、より多くのことに気づけると同時に自分も楽しめることがわかりました。また、自ら望んで入部し練習に来ているので、部員には「仕事をしてもらって申し訳ない」と思ってほしくなかった事から、楽しんで部活動をしていることを示すようにしていました。

 そして現役最後の夏には、部として27年ぶりに全国大会に出場できました。私自身がヒットを打ったわけでも好投をしたわけでもありません。しかし努力が報われ喜ぶ選手たちの笑顔に「少しでも力になれたかな」と思えたこと、そして「一緒にやってきてくれてありがとう」という言葉をもらえたことが、私にとって大きな成果でした。また、当初思っていた「友人を得る」「大学生活を楽しむ」という個人的な希望も叶えることができました。部活動をした3年半の中で体力的にも時間的にも厳しい時があり、また自分が部全体に対してできることは何かと悩むこともありましたが、そんな苦労を大きく上回る楽しさ、充実感を得られました。引退して2年以上たった今も、時々集まる同回生だけでなく仲良くさせていただいている先輩、後輩がいて、部活動で得た人とのつながりを保っています。

 振り返ると、入部したての頃は「マネージャーは選手のお手伝いをしたらいい」という甘い認識でした。しかしある程度マネージャーとしての仕事をこなせるようになったある日、選手に頼まれた仕事をできなかった事、そしてそれを「あ、いいよいいよ」と軽く許してもらえた事で、自分の情けなさに気がつきました。「野球が好き」「自分が楽しみたい」という気持ちだけでは、本当にチームに必要な存在にはなれないし、期待もされないと感じたのです。その時、「選手が練習や試合に集中できるよう、準備やサポートを含めて能動的に働く」という役割を全うし、もっといえばチームに欠かせない人になりたいと思いました。その時には、私達以上に大変でも好きな野球に打ち込んでいる選手や頼れる先輩を尊敬していて、彼らにとって少しでも役に立ちたいと自然に思えたのです。この気持ちが、その後も部活動を続ける原動力になりました。

 部活動を通じて、私に現れた変化がいくつかあります。まず、私にとって部活動への入部自体が、新しいチャレンジで経験できる楽しさや成長を知り、安定志向だった性格が積極的な方向へと変わるきっかけになりました。また「他の人の求めているものを考え提供する」というそれまでに意識したことのない仕事に気づき、取り組めたことも大きな成果です。さらに、それまでは「自分が楽しいと思うことをしたい」と考え実際に楽しく生きていた私が、他の人のため、チームのためという気持ちで動く喜びを感じられたことが、自分でも意外な変化でした。これからの人生では、以前までのような「自分が最優先」という幼い考え方だけでなく、周囲の人や社会全体のためという視点で動くことばかりだと思います。部活動を経て体感した「挑戦で得られる楽しさ」「人のために動く大切さ」をこの先も経験できるよう、積極的に生きていきたいです。

「10年後の私」

大阪大学大学院 経済学研究科
匿名

 「10年後の私」がどのような姿であるかを想像することは、非常に難しいと思います。10年前を振り返った時、当時の私は現在の私を想像することは出来なかったと思います。この推測から考えると、10年後の私を想像しても恐らくそのようにはならないし、意味が無いのではないか、と思うことさえあります。しかし、10年前の私も、10代ながらに自分の目標を持って行動していたはずです。その目標が、途中で様々な要因を受けて変わった結果、今の私があるように思います。従って、10年後の私を考えることは、今後の「一里塚」を考える上で非常に大切なことであると考えています。「温故知新」という言葉があるように、今後の自分を考える上は、まず過去を振り返り、それから将来を展望したいと思います。

 大学入学以降、私は経済学者になりたいと考えていました。学部時代から一貫して、経済学者になるために必要な素養であるミクロ経済学・マクロ経済学・計量経済学を精力的に学んできたつもりです。
 しかし、修士課程へと進学した私は、経済学者への道ではなく、就職し職業人としての自分を切り拓こうと思いました。経済学者になろうと考えていた私が就職するに至った理由は、大きく3点あります。

 第1に、家庭の事情です。冷静に家庭の経済状況を見つめてみると、修士までは精力的に学び、それ以降は就職したほうが良いと判断しました。また、学年が上がるにつれて、日本学生支援機構をはじめとする奨学金の金額も、自分の頭上に重くのしかかるようになりました。これらの負債を積極的に返済し、自分自身が社会へ貢献していくには修士課程を経た後に就職するのが最適であると判断しました。

 第2に、現実経済を知りたいという好奇心です。経済学という学問は、二つの段階で成立しています。まず、様々な経済現象を参考に経済学に基づいた経済理論を設計することです。次に、経済理論をデータなどの経済統計と照合させ、現実経済にあてはまっているかどうかを検証することです。前者を理論研究、後者を実証研究と呼びます。実証研究の研究者を志していた私は、経済学徒の中では現実の経済に興味を持っている方の学生でした。実証研究では、経済理論と現実経済を照合させてその成立を検証しますが、その際には当然さまざまな経済統計を用いるため、その際に現実経済の一端を触れることは可能です。しかし、経済は刻一刻と変化しているため、学術的な観点からはどうしても後追いになってしまうのが現状です。したがって、現実経済の最前線で働くことによって、躍動する現実経済を体感してみたいと思いました。

 就職活動を通じ、幸運にして、4月より現実経済の最先端で働くことが決まりました。4月より、ご縁があって短資会社で働くことが決まりました。短資会社の主業務とは、日々生じる銀行間の資金融通を仲介することです。ここで決まる金利である「無担保コールレート」は、日本銀行の金融政策をはじめとする様々な経済の指標になっています。経済の躍動感を体感したいと考えていた私にとっては、このような業務を行う会社へと就職出来ることは願っても無い幸運です。
 短資業界はあまり知られていない業界であり、自分10年後を描くのは非常に困難ですが、ここでは現在心に秘めている目標を2つ紹介したいと思います。
 まず、最初の目標は、「人間関係を良好に保つこと」です。家族との関係、友人との関係、職場でお世話になる皆さんとの関係を良好に保ち続けることが、これからも重要であると思います。特に、友人関係に関しては、みなそれぞれの人生を歩む上で、それぞれの人生に敬意を払って互いを尊重し合うことが今まで以上に重要になってくると思います。また、お世話になる会社では、行動規範として「三セイ主義」を掲げています。三セイとは、「正・清・誠」を指します。職業人としてだけではなく、人間として「三セイ」を念頭に入れて行動できるようになりたいと考えています。

 次の目標は、「変化に柔軟な人材になること」です。社会現象を定量的・定性的に考察する経済学を学んだ私は、金融機関でもその知識が役立つかもしれません。しかし、役立つことを期待してはいけないと考えています。その主な理由としては、先述したように、経済学の理論と現実経済は異なるためです。また、それだけではなく、今まで学んできたことにあぐらをかいていると、新しいことを学ぶことが出来ないと考えているためです。従って、以前に学んできたことは全て忘れるくらい謙虚な気持ちで、4月からの生活を充実させていきたいと思います。また、近年、米国を中心に金融業界ではIT化による変革が起きています。そのような変化に適応できるよう自らを研鑽していきたいです。具体的には、経済に関する知識を習得するとともに、法律やプログラミングなどを必要に応じて学んでいきたいと考えています。特に、プログラミングに関しては、これからの金融機関を考える上では絶対に不可欠であると考えているため、必ず学んでいきたいです。

 以上のような観点から、10年後の私を考えると「人間関係を大切にすること」および「業界の激しい変化に対応できる人間になるよう日々研鑽を怠らないこと」が思い浮かんできます。今は新しい気持ちで臨んでいますが、この気持ちをいつまでも忘れないよう自分自身を鼓舞していきたいと考えています。

「私が学生時代に打ちこんだこと」

大阪大学大学院 薬学研究科
山崎聖司

 私は、大学学部学生として2009年4月からの1年間、大学院学生として2010年4月からの2年間、貴奨学会にご支援いただきました。その間、私が打ち込んだことは、やはり研究です。現在の研究室に配属となった学部4回生から、薬剤耐性菌と呼ばれる抗生物質が効かない細菌を生み出す原因となっている、薬剤排出ポンプというタンパク質の研究を行ってきました。細菌の薬剤排出ポンプは、菌体内に入ってきた抗生物質を、その効果が現れる前に、菌体外に排出する役割を担っており、単独のタンパク質で多種多様な薬剤を認識・排出できることから、院内感染などで臨床上大きな問題となっている多剤耐性化を引き起こすものとして、特に注目されています。その詳細については、本来の機能役割・発現制御機構・内部構造等の点で未だ不明な部分が多く、臨床的に有効な阻害剤もまだ得られていない状況でしたが、学部4回生後半から修士課程にかけて、自ら数多くの変異型薬剤排出ポンプの構築・解析を進めたことで、当タンパク質に関する研究が大きく進展しました。

 当時は、連日深夜に及ぶ実験で、それまで続けていたアルバイトも辞めざるを得なくなり、経済的に非常に厳しい状況でしたが、この3年間、貴奨学会にご支援いただいたことで、自分の研究にしっかり打ちこむことができました。その結果、薬剤排出ポンプの薬剤認識排出機構を解明した論文、当タンパク質の阻害剤に関する論文の計2報を、世界的に権威のある学術誌Natureにて、発表することができました。当論文は、耐性菌感染症克服の道筋を示す成果として数多くのメディアで報道され、大きな話題となりました。その他、薬剤排出ポンプの発現制御機構を複数解明することに成功し、当タンパク質と共に働く因子の同定や、細菌の膜周辺構造との関係性等を明らかにした結果、これらの研究成果が評価され、天皇陛下の御即位20年にあたり創設された「日本学術振興会 有志賞」の受賞者に選ばれました。授賞式では、違う分野の受賞者と深い交流ができたのに加え、ご臨席いただいた秋篠宮同妃両殿下と、研究内容や今後の展望についてお話しすることができ、大変貴重な経験をさせていただきました。

 その後は、これまでに得られた成果をもとに、新たな治療薬となり得る新規化合物の探索も行い、現在、民間の企業と協力して、耐性菌感染症に有効な新しいタイプの薬を開発する段階まできています。当分野では、新たな抗生物質を開発しても、耐性菌の出現により開発資金の回収が困難となる等の理由から、製薬会社は研究開発に非常に消極的です。細菌が薬剤耐性を獲得するメカニズムに関して未だ不明な点が多いことも、開発を躊躇する大きな原因となっています。実際に国内・海外を問わず、関連する研究施設の閉鎖を決定し、細菌感染症部門から撤退する企業が相次いでおり、その影響で、新たなタイプの抗生物質はこの10年で一つも開発されておらず、新規抗生物質全体の開発・承認数も年々減少しています。近年では、人類の保有するすべての薬が効かない超多剤耐性菌の出現や、都市部での多剤耐性結核菌の蔓延、肺炎の原因菌であるマイコプラズマの薬剤耐性化が急激に進むなど、状況はますます深刻になっている一方、現状の対策としては、各病院で限られた人員を割いて、抗生物質の適性使用を監視することで、耐性菌の出現を予防する手段しかありません。

 このような状況でも、耐性菌に関する基礎研究を続け、臨床応用につなげていくことが可能であるのは大学です。大学における当分野の研究の重要性をしっかり理解し、世界初となる耐性菌感染治療薬を完成させるという強い使命感を持ちつつ、今後も研究を続けていきたいと思います。